まだBUMP OF CHICKENを好きで居られる理由

「電車の中のサラリーマン」

という言葉から連想する意味合いは何ですか?

 

「疲弊」「苦悩」「停滞」

などなど、おそらく、マイナスイメージがふつふつと浮かんでくるのではないでしょうか。

 

28歳の僕は電車の中で揺られるサラリーマンの一人ですが(今はコロナウイルスの影響で在宅勤務中です)、年々、新しい音楽を聴かないようになっています。

 

これは僕だけかもしれないのですが、数多く存在する音楽家たちの「批判」の対象が、「電車で揺られている自分」に向けられている気がするからです。

 

▼大企業で勤めていた時のトラウマ

今から4年程前、僕は(その業界では)非常に大きな会社に勤めていました。初任給としては破格の待遇を受け、その分ほぼ毎日終電で帰るような生活でしたが、側から見れば「勝ち組」の権利を手に入れておりました。

 

しかし、僕はその年「鬱病」の診断を受け、休職します。ちなみに、診断を受けた後も少しだけ出社していたのですが、耐えきれなくなった僕は近くに流れている川へ飛び込もうとしていたらしく(この時の記憶がはっきりしていないので断言できないのですが)、しばらく「死にたい」と感じる自分との戦いを強いられることになりました。

 

現在は、「死にたい」と思うことが少なくなり、むしろ、やりたいことが増えて来ました。いい傾向です。

 

ただ、当時の僕は終わらない世界を嘆き、変わらない環境を呪っていました。ああ、なんでこんなところで生きているんだろう、と。

とにかく苦しかったのです。生存競争を勝ち抜くためには成果を残さないといけない。だから必死に働きます。休みだって出社します。あと数年、せめて20代の間はたくさん働いて、そこで何かを得られればいい。だから、数年は持ってくれ……それが、僕の願いでした。

でも、「シン・ゴジラ」を観た時、職場周辺がゴジラに焼かれた時、「本当になくなっていればいいのに」と思ったくらいには、僕は限界でした。

 

そんな時、僕の鬱を「音楽」が加速させます。

 

学生の頃は、邦楽ロックを中心に聴く、所謂ロキノン厨でした。

僕の青春はロックバンドに彩られ、同時に彼らから勇気をたくさんもらいました。

 

しかし、働き始め、いざ彼らから元気を貰おうとした時に、僕は気付いたことがあります。

 

彼らの中で、初任給をたらふくもらい、何一つ不自由ない生活を送っている「僕」は、彼らが救おうとしてくれる「誰か」に含まれているのかと。

 

奇しくも、2011年に起きた東日本大震災以降、命のあり方を歌うバンドは増えて来た印象があり、国家のあり方についてメッセージを発信するバンドも居ました。

 

これを、もし10代の僕が聴いていたら、僕はそのバンドを心底応援したでしょう。

学生時代の僕にとってロックバンドはそれこそ「神」であり「宗教」でしたから。

 

ただ、その時の僕は「神」や「宗教」が教えてくれることを受け止めることができませんでした。

もっと踏み込めば、「サラリーマンから抜け出そうとしない」僕では、彼らのメッセージを受け止められなかったのです。

 

結果、僕はストレス解消から「音楽」という大事な要素を捨てることとなりました。

それは、僕のメンタルの崩壊を加速させたのかも、しれません。

 

聴き手を等しく糾弾してくれた「BUMP OF CHICKEN」の唄

そんな中、BUMP OF CHICKENの曲は、疲れ果てた僕でも、耳にすることが出来ました。

むしろ、暗闇を模索する僕ですら糾弾してくれる、「親」のような厳しさが彼らの歌にはあったのです。

 

ファンの間では評価が分かれておりますが、僕は「COSMONAUT」というアルバムが大好きです。

それまでのアルバムに比べると、比較的優しいメロディラインの曲が多く、受け手によっては「柔らかくなった」という印象があったようです。

 

中でも「モーターサイクル」という曲の歌詞は強烈でした。

http://j-lyric.net/artist/a000673/l022d0a.html

 

「わざわざ終わらせなくていい どうせ自動で最期は来るでしょう」

 

「気にする程見られてもいないよ 生まれたらどうにか生き抜いて」

 

「周りが馬鹿に見えるなら 生き難いなんて事もないでしょう」

 

「そもそも大した事言ってない」

 

これはBUMP流の応援歌なのですが、所々、世間を皮肉って悲劇のヒロインぶっていた自分に刺さる歌詞が散りばめられていました。

 

この歌詞には上も下も右も左もなく、ただ、曲を聴く「お前」が存在しています。

どこかバンドマンコンプレックスを抱いていた僕にとって、BUMPの応援歌、及び説教はストン、と胸に落ちたのです。

 

まあ、歌の力だけで立ち直れたわけではないのですが、苦しい時にBUMPの曲を聴いて、最期を迎えようとする瞬間を引き延ばせたのは確かです。逆にいうと、青春時代に背中を押してくれたバンドたちの歌のほとんどは、僕にとっては毒入りに変わっていました。そりゃそうだ。もう青春時代はとっくの昔に、終わっていたのですから……。

 

▼「主題歌」であれば聴けるけど、それ以上は冒険できない僕の「帰る場所」

2019年、サブスクリプションという大きな波とともに、従来のヒットチャートには反映されないヒット曲が生まれました。

 

「Pretender」「白日」「まちがいさがし」「ハルノヒ」「紅蓮華」「インフェルノ」「us」(アーティスト名省略)

 

これらはいずれも、ドラマや映画、アニメの主題歌(OPテーマ)であり、作品を彩る役目として、そして各アーティストを輝かせるものとして存在していました。

 

ただ、そこから各アーティストを深く追うことはしなくなりました。

深く追って、また「僕」のような存在を敵のように扱う曲に出会うのが怖かったからです。

 

子供みたいな理由ですが、僕は子供なんです。

冒険したいけど、足を踏み出すのは怖いんです。

というか、一旦ぶっ壊れた心をつぎはぎのまま走らせてるのに、音楽に「壊された」なんて思うのは、その歌を歌うアーティストに失礼だと、かつてロックバンドが好きだった僕は思うわけで。だから僕は「聴かない」を選びたいんです。

 

でも、2019年も、僕はBUMP OF CHICKENのライブに行く事ができました。

 

心の弱い僕にとって、BUMPはまだまだ「神」であり「宗教」です。

抜け出すことが出来ないまま、BUMPの曲に力をもらっています。

 

もちろん、今回のアルバムの多くがタイアップ付きの既出曲だったため、安心だったのは否めません。

 

今、世間はこういう状況ですから、BUMPが次に出してくる歌が、僕にとっては苦しいものになるかもしれませんが、その時は、僕がこの「神」の信心をやめ、「宗教」から抜け出す時と断言できます。

 

今の、冒険できなくなった僕にとって、BUMPは「帰る場所」なのです。

 

 

 

おそらく、今年から来年にかけて、音楽家たちのトレンドは一変するでしょう。

当面は命の尊さを説き、空の上でふんぞり返っている(ように見える)権力者を糾弾する世界が広がっていくんじゃないかなあと。

ただ、僕はそういうのがもうダメになっちゃったので(多くは説明しませんが)、しばらくは昔よく聴いていたバンドマンの曲を聴いてしのぐか、ドラマやアニメの曲を聴いて今のトレンドを押さえた気になるのだと思っています。

 

でも、BUMPの曲は、僕はまだ、待てる気がするのです。

こんな身勝手な僕をまた、ビシッと怒ってくれるような気がして。